呼吸法について

呼吸を調え、自分らしく生きる未来に

禅の宗教性を除いたマインドフルネス

世界的に広まった「マインドフルネス」はもともと坐禅をすると古来身心に様々な効果があるので、薬の効かなくなった患者さんに応用することができるのではないか?と始まった研究と言われております。
そこで実際の効果を科学的に検証するために、禅の持つ宗教性は除かれ、呼吸法だけが取り出されました。
研究の過程で、ストレスとウツに大変な効果があるとわかってきました。そこで社員の心の健康のために企業が取り入れ、行政や病院も取り入れ始めました。ハーバード大学やスタンフォード大学、オックスフォード大学など、名だたる大学も研究に乗り出し、呼吸法の解明が進みました。

その結果、
・いち早くGoogleが全社を挙げて研修に取り入れたことは世界中に知れ渡りました。
・またアメリカの医療費の75%がストレスに使われるという事実に、莫大な医療費を軽減したい疾病予防センターは呼吸法の導入を推奨しました。
・ニューヨーク州は住民にオンラインで呼吸法を発信しています。
・国連はコロナで在宅勤務の職員に実践を推奨しました。
・また、アメリカでは刑務所に導入するところは多く、オレゴン州では出所後の再犯率が50%に減少したとの報告もあります。
・面白いところでは、フランスには口語で「禅してる?」というものもあるそうです。

しかも現在、グローバル企業と言われる大企業の25%は呼吸法を導入しており、瞑想ルームが設置されているのだそうです。
 瞑想人口は3600万人、2000億円を突破する一大市場にもなっているのです。

日本で広がらなかった理由

それほど欧米では広まっている呼吸法ですが、元来日本のものであった呼吸法なのに、なかなか日本では浸透しません。
私は38年前に禅に入門し、20年経ってから禅についての講演などの活動を18年やってきましたが、何かを拝むわけでもない、ただ身心を静めていく極めて知的な作業であるにもかかわらず、戦後の宗教と教育を切り離すあり方が立ちはだかってきましたし、何よりオウム事件の影響は長らく尾を引きました。
宗教性を廃しよう、でも心の教育は必要だ、という矛盾を抱えた道徳教育のあり方について、随分と議論の場にも出向きましたが、個人的には賛同するが、行政は動かないだろうという返事ばかりでした。

英サッチャー首相は瞑想を法制化

15年ほど前、教育再生担当大臣だった山谷えり子氏にお会いしたことがありました。山谷さんは、イギリスのサッチャー政権が、低い学力が問題になっていたため、小学校の一日の終わりに瞑想の時間を法制化したと話されました。「心がザワザワしたままでは授業内容も忘れてしまう、定着の時間が必要である、友だち関係の問題などいろいろなことを抱えた子どもは多い、心の成長のためにも学問の向上のためにも、じっくり落ち着く時間を持たせることが授業数を増やすより大事である」ということでの施策だったそうです。
法制化とはさすがに有無を言わさぬ強さだなと「鉄の女」の一面を実感した次第でした。

このように世界のいたるところでは動き始めていましたが、私の実感ではこの18年、行政の扉は遠いものだったと思います。しかし多くの方々が講演や講座に集ってくださり、心ある企業が研修として取り入れてくださり、共同通信をはじめ新聞社やマスコミが講演の機会を作ってくださいました。
そのうちに世界的にマインドフルネスが広まり、ついにアメリカの行政が取り入れるまでの確実な研究も成され、今、まさに日本にも逆輸入で広まろうとしているところです。

もともと禅では?

さて、マインドフルネスの効果についてはハーバード大学が
1、集中力に多大な効果がある
2、ストレスに多大な効果がある
3、創造力に多大な効果がある
とした上で、
4、EQが向上する
5、人間性が向上する

という、なかなか理由を見つけるのに難しい報告をしています。
なぜ呼吸をするだけでEQという、まさに心の部分が向上するのでしょう?
なぜ呼吸をするだけで人間性に向上が見られるのでしょう?

この答えは、前3つの効果により脳が静まり、恐れを手放し、明るくなり、共感力が増すから、ということはもちろんですが、今もう一度、「そもそもこの呼吸法は禅だったよね?禅はなぜ坐禅をしていたの?するとどうなると思ってしていたの?」と、禅を知る必要があるのではないかという動きも出てきているのです。

禅は宗教?ブッダの悟り

その前に、禅を「宗教」と見なす位置づけは正しいのでしょうか?私はこの視点であれば仏教さえ宗教と言えるだろうか?と思っています。
第一に、宗教という括りは、どうも日本人の場合は一神教、拝み頼り絶対視するものを宗教と言っていませんか?だとすると本来の仏教も、その方法論を取り出した禅も「宗教」とは言い難いものがあります。きわめて科学的な面を持っているからです。

ブッダは自分の中に煩悩を感じ、その汚れを失くすためにあらゆる苦行をしたと伝えられています。しかし断食をすればお腹が空く、眠らない修行をすれば睡眠不足で眠くなる、煩悩は断つ方向で努力すると帰って肥大化するのです。
そこで最後にブッダ釈尊は、静かに坐することを選びました。沐浴し、森の若い女性スジャータに牛乳粥を施してもらい、身心を調えて菩提樹の下で禅定三昧に入られたのです。
その姿に苦行仲間は、彼は堕落した、と悲しんで離れて行きました。そしてついに12月8日の明けの明星を見た時、悟りを得られたのでした。

その時何を悟られたかというと、十二因縁と四諦と言われています。理屈は説明できてもその境地は語れるものではありませんので、詳しくはこのHPにある第1期仏教講座1をご覧ください。ともかく釈尊は、坐禅により完全に自我が静まった状態を身体で作り、その状態が悟りとイコールだったということがここでは重要です。

自他不二の境地

つまり、呼吸をコントロールすることで、認識を静め、静まった状態が自我の皮を破り他とつながる体験として得られる、これが「自他不二」の境地であり禅なのです。
波が鎮まれば月が映る、あらゆる外界をそのままありのまま映し出す、この状態こそが。呼吸法で実現できる心(マインドフルネス的に言うなら脳)の状態と言えましょう。

通常、我が立っている時は、常に自分の思いで対象物を好きか嫌いか、正しいか間違っているか、などと裁いているので、決してそこに本当の愛などあり得ません。
しかし自我の波立ちが消えれば、無条件に対象物を受け入れることになります。そこには深い共感という愛が生まれます。それを仏教では慈悲と言いました。従って、このような境地になった人を、仏教では「菩薩」と位置付けたのでした。

他ともに大切にする禅

この状態を導くのは呼吸を元に身体全体を静めていくことが必要です。ブッダはこの方法を見つけたのでした。決して何かを拝んだり頼ったりするのが本来の仏教ではありません。むしろ自分をかけがえのない存在として大切にし、ゆえに自立し、同じように他を大切に重んじて生きていく道が禅なのです。

呼吸法が高度にできるようになると、この悟りと同類の状態になるはずです。そこで、共感力が高まり、人間性が向上するということが起きるのだと思われます。そのような人が増えれば、争いも無くなり平和になる未来が待っているはずですね。
持続可能な未来は、自我に翻弄され、他と交われず孤独に苦しむのではなく、呼吸を調え、他と交わり、穏やかに知的に自分らしく生きる未来に続いています。

日本人独特の不安感

元々日本人は幸福物質のセロトニン、正確にはセロトニントランスポーターの分泌が少ないせいで、世界でも「不安感」の強い民族とわかっています。不安感や心配性は、それゆえに失敗を恐れ正確な仕事となり、世界一の経済大国にまで上り詰めました。
しかし、一方で自殺者3万人という事態が10年間も続く国でもありました。また2020年10月は、前年度比40%増という緊急事態が発生しています。

もともと内閣府の若者の調査でも、自己肯定感の低さは常に指摘されてきました。足りないままで良いではないか、と、不完全な自分をあたたかく大切に扱う愛情があることを知らない若者、有用性といって、他人に役に立つと思われることでしか自己評価ができない若者のあり方は、世界でも他にない感覚なのです。このような真面目な感覚は、ふとした時に自分を自分で守り切れない危うさを孕んでいます。

ゆっくりと対策を考えている場合ではありません。呼吸法は覚えてしまえば1円もかかりません。しかも世界が認めているのです。どうか、呼吸法と禅の精神と、どこからでも良いので、私はどこからでも話せますし、実践を提供できますから、どうぞ一日も早く一緒に取り組みましょう。