仏教講座

講座の内容をみなさまにご紹介

仏教講座について 

平成28年から4期5年目を迎えた仏教講座。
現在『六祖壇経』を開催中です。
2月7日(コロナのため中止)、4月25日 日暮里擇木道場にて。
午後2時から3時半。
一般3000円。テキスト込。
リモート参加もできます。お問い合わせください。

第1期の第1回目は視聴無料!
1時間半から2時間の講座です。テキストを手元に置いてお聞きください。

導入部分の動画をご覧ください。動画のフルバージョンは後日掲載予定です

さて、世の中には実にたくさんの勝れた仏教書、仏教講座があります。
が、この講座は禅の修行者として、お釈迦様と同じ禅定の状態を目指して努力している立場からの解説です。
仏教は哲学であり、科学であり、心理学であり、医でもあります。
人間観、世界観、どれをとっても合理的に納得のいく深い叡智に満ちています。

本来仏教は、死後の世界を説かず、今この生きている世界で安らかに生きるにはどうしたらよいのか、という追究です。
そのために、まず「人間とはどのような存在か」と追究し、何が生きにくくしているのかを明らかにしました。
次に「世界はどのようにできているのか」を追求して明らかにしました。
さらに「生きにくさは自分と世界との関係性の問題」であることを追究して明らかにしたのです。
その結果、どのような自分ならば、対峙する世界(人・出来事)と苦のない関係を結べるのかを詳細に追究していき、方法も明らかにした、これが仏教です。

ですので、決して神秘的なベールに遮られたものではありません。
昨今の脳科学や科学が解説する人間観を見ますと、むしろ2500年前に釈尊が説かれていることだと感じるほどですので、その方向から見ても、大変興味深いと思います。

現代科学に違背しない現代性を持ちながら、しかし「悟り」とはやはり学問ではありません。お釈迦様が実際にされたように、身体を使い、坐禅により呼吸を調え、好嫌・正誤・浄垢・増減・生死に代表される相対の「色」の世界から、我を手放し、認識以前の「空」の体感から実感が伴うものが「悟り」だと言えるでしょう。

従って、仏教講座は机上の論だけでなく、釈尊が菩提樹下で禅定に入られたように、禅定の深まりによるベクトルの方向こそが問題であり、それをやはり体感として掴んでいることが大事だと私はどうしても考えます。特に禅は、釈尊の悟りの方法であった禅定を継承し、「直指人心見性成仏」という体験を重視してきました。坐禅によって鎮まった心の状態の中に、すべての教えが含まれる、と釈尊も説かれております。

私の40年近い禅の修行歴は決して短くはありませんが、まだまだ遠い道のりを歩いている最中の一修行者です。人類の叡智を解説するにはおぼつかないと承知しております。が、現代に生きる禅者のひとりとして、仏教の叡智の一端でも、現代の様々な問題に実際に生かすという本来の仏教の目的のために、少しでも多くの方に難しい理論をわかりやすくお伝えすることができれば、これ以上ない喜びであり本望です。どうかひとりでも多くの方の参考になりますよう祈っています。

第1期 仏教講座

第1回 釈尊の悟りまでの道程と悟りの内容① 初転法輪(最初の説法)

<内容>
釈尊の生涯を振り返りながら、経典に書かれた釈尊の「悟り」とはどのような内容であったのかを解説していく。
悟り(覚り)とは目に見えないが、人格となって明らかに働きの上に表現されるものである。
色は空だが、空は色となって初めて存在するのと同じである。(色即是空 空即是色)
悟りを究極まで知った人、見た人、得た人とはゴータマ・ブッダ、釈尊である。
従って仏教における悟りは、釈尊の生き様、言葉、行動すべてに顕れており、そこに人間形成の完成の姿を見ることができる。
したがって、釈尊の生涯を丁寧に辿ることが、そのまま法に接することであり、悟りが現成すればどのように発露するのかを知ることができる。
釈尊の姿は人生の指針であり、遥か彼方に煌く旗印でもある。
釈尊をどう捉えるかがそのまま仏教思想を深める基になるという観点で、釈尊の出家と悟り、最初の説法までを学ぶ。悟りの内容「縁起」「中道」「四諦」「八正道」の解説と、この世の姿は?人間とは何か?より良く生きるにはどうすればよいのか?等の基本の教えを学ぶ。
*尚、第1回と2回は、中村元先生の「釈尊の生涯」(平凡社)を資料にしています。 

お申し込みはこちらのボタンからお願い致します。

第2回 釈尊の悟りまでの道程と悟りの内容② 釈尊の死までを辿る『涅槃経』

<内容>
『涅槃経』は、悟りを得てブッダになった釈尊の説法がまるで目の前で行われるかのような描写で書かれていく。死を覚悟した釈尊が、最後の旅をする過程で、様々な人に法を説いていく。いよいよ円熟し完成した釈尊の悟りが、言葉や態度の隅々にまでゆきわたっており、接する私たちの心も深く落ち着いてゆく。
はからずも師に毒を与えてしまった弟子を思いやる釈尊の姿とその言葉には、深い感慨と共に人間であることの希望やの可能性さえ感じさせる。当時の厳しい差別であるカーストをものともしない姿、死に直面したときの姿、真理を語る姿、すべてにおいて必読の経典である。

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第3回 釈尊最期の教え『遺教経』

<内容>
釈尊の遺言、まさに死にゆく最期の説法の記録である。仏教の教えを簡潔にまとめた、仏教を学びたい人には必読の書。自分の感情に振りまわされるのは暴れ牛が畑を荒らすようなもの、いかに制御するかである、という一連の話は、現代の「メタ認知」そのものである。
「蜂が決して花を傷めずに蜜を適量採るように欲を扱いなさい」、「自分自身をしっかり見つめていなさい、うっかりしているとすぐに毒蛇のように自分を襲うだろう」、「怒りを扱うこと」、「正直に自分を見つめる心こそ、一番の美しい衣装と飾りである」等、叡智に満ちた言葉の数々に接する体験をぜひお勧めする。

第4回 大乗仏教の成立 「龍樹」の思想を学ぶ―-空と慈悲

<内容>
釈尊の滅後500年を経て、仏教は大きく展開していく。いわゆる「大乗仏教」の成立である。500年間、支配層の庇護を受け、自らの研究に没頭してきた仏教者に対して、はたして釈尊はそのように巨大な僧院に籠っていただろうか?いや生涯差別された人、苦しむ人のために説法をして歩いておられた。大衆を救済する本来の仏教に還ろう、という運動である。
論破するには相応の理論が必要だ。それが「空」であり、それを実践する理想像が「菩薩」だったのだ。『般若心経』はこの理論の基本テキストである。ここでは大乗仏教の理論を大成させた「龍樹」の難解な理論をできるだけ優しく解説する。なぜ「空」が大衆の救済の根拠となり得るのか、ここが大変重要なところである。未来にきっと大いなるヒントになる、まさに持続可能な理論にぜひ触れていただきたい

第5回 『華厳経』を読む① 一一の微塵の中に一切の法界あり

<内容>
『華厳経』は釈尊が悟りを開かられた「その時」を壮大に語ったものである。この世はすべての存在が関与し依存し合い、見えない大きな因縁のはたらき「無尽の縁起」によってすべてのものは動的均衡を保つ「事事無礙法界」の姿をしている、と説く。鈴木大拙氏は、「臨済禅師の思想の中には華厳があるので、どうしても華厳をやらなければ禅の理解ができない」と述べておられたが、これが禅に受け継がれていった中心的思想である。
日本においては奈良時代、東大寺の開眼供養で講義が行われたほどの存在。「凡夫のまま、貧しいまま、美しくないまま、仏の輝きに照らされ生きている」という人間観・世界観は、現代に到るまで生活を大きく変えていく力を持っている。小さな人間関係から、戦争の絶えない現代考に到るまで、今、どのような思想が必要だろう…そう思索する方は、ぜひ華厳の世界観を知っていただきたい。

第6回 『華厳経』を読む② 菩薩への道~善財童子の旅

<内容>
私たちは互いに関わり合い大きな調和と融合の中を生きている。ひとつひとつの無数の存在は他を侵すことなく、互いの存在が他の存在を存在ならしめながら成立していて、それが全体になっている。だから小さな微塵の中にも全体が存在しており、どんな小さなものでもそれ自体が絶対で、一塵といえども動かすことはできない・・・これが華厳思想である。大乗仏教を知るには、華厳と般若を知らねばならない。
今回は青年が先達に教えを乞いながら旅をする物語を通じて、後の仏教にとってまさに大輪の華として輝き続ける思想の数々と、宮沢賢治が『華厳経』の一節を元に書いた「インドラの網」や彼の思想も併せて解説していく

第2期

第1回 『般若心経』心と身体はどこにある?

<内容>
私は20年、『般若心経』の講座を各地でしてきたが、月1回の講座であれば1年でも2年でもかけられるほどの内容である。それを今回は4回に納めた。
この経典は、釈尊の本来の悟り、龍樹、大乗仏教の成立、『華厳経』、そして『般若心経』という流れで学ぶとよく理解できる。大乗仏教の旗手たちは、それまでの仏教教団に対し異論を述べるに当たって、根拠を「空」に求めた。
空は一切の差異がない平等の世界である。したがって自他不二の境地となり慈悲が発動する。ゆえに利他行が空の境地とイコールになるのである。この実践をしている人を菩薩と言い、その行いを菩薩行、歩みを菩薩道という。今回は、空海、一休禅師、白隠禅師が残された解説も共に読んでいく。

第2回 『般若心経』あるがままを堂々と生きる

<内容>
「色即是空空即是色」を詳しく解説。さらにこの真理を得ることで何が得られるのかも検証していく。非常に大事な所。唯識、法句経の引用もしながらの解説。
巡り来る運命は避けようのないもの、縁起によって否応なく訪れるものである。良い人だから良い運命とは限らない。愛する者との別離の苦しみ、 怨み憎まざるを得ない人との不幸な出会い、心から求める物事がどうしても得られない苦しみ、病や心のありようが思うようにならない苦しみ、など仏教でいうところの四苦八苦に遭遇するのが人間ならば、受け手の心次第ということになる。ではそのとき心はどうあれば私たちは安らかに生きられるのか、を学んでいく。

第3回 『般若心経』無と悟りの行く先

<内容>
「無」についての検証をしていく。この世のすべての名称と形態は皆、縁起によって成り立ち、無常であり皆我ならざるものである。したがって本来執着すべきものではない、と『般若心経』は説く。無の状態とは自我を鎮めて手放すことで、情報をあるがままに正受し、結果、正しい一歩を踏み出せる。
現実は痛切で、予想出来ぬ豹変をし、複雑きわまりない。にもかかわらず実は常に簡単な法則に従って動いていて、常に調和している。したがって裁かず分別せずに、苦しいときは苦しいまま、悲しいときは悲しいまま、静かに心に微笑みかけて空の海に形ある感情をそっと溶け込ませていこう、というやさしさも読み取っていく。

第4回 『般若心経』心の自由と伴う慈悲(最終回)

<内容>
ここまで、人間とはそもそもどのような存在か、ではどこを目指せばよいのか、どうすれば可能か、なぜそうなれるのか、どのような境地が現れるのか、などを考察して論理を積み重ねてきた。
最後に、空を悟ることによって菩薩の境地を得るとは、自利においては自由、すべてにおいて怖れなし、利他においては無縁の慈悲の心になることが結論になると説く。ここにおいて、そもそも『般若心経』の主人公が観音菩薩であることの意味も明かされ、仏教の根本が披歴される。

第5回 『天台小止観』① 坐禅は万行の帰趣

<内容>
『般若心経』によって目指す方向が示されたが、その境地になるためには坐禅による禅定と止観が必要である。この書は天台大師智顗(538-597)が止観について説き弟子が記録したもの。天台大師は坐禅こそが万行の帰趣としている。真理は常に鎮まり深まった心の状態にこそ在るのであって、外に探すものではない。これが禅に引き継がれていく。
この回では、釈尊の境地や『法華経』にも触れながら具体的な坐禅の方法を学ぶ

第6回 『天台小止観』② 坐禅が帰結するところ

<内容>
人間は外界の影響を受けて心が乱れる。外界は自分ではコントロールできないので、受ける自分の心をどのようにしておくか、という問題の立て方になる。さらに深めていくと、外界との関係性以上に悟りの境地にもつながる。坐禅は、最も優れた止観の実践行ではあるが、本来人間は動いたり、止まったり、坐ったり、横になったり(行住坐臥)しているものである。そのため、坐禅のみならず生活のすべてにおいて止観の実践が不可欠である、というのが、『小止観』の大義。具体的な呼吸の仕方もあり大変役に立つ一方、天台の一心三観など高度な精神性も満載。