禅書道

坐禅の呼吸を書くことに応用していく独特の書道

まだ眠っている自分を引き出し、出会うために

「筆を持ったらサムライ!」

合言葉は「筆を持ったらサムライ!」で、幼稚園から大人まで現在2か所で開催しています。
埼玉県は小中高校まで、春は県下一斉に硬筆展、冬は書初め展があり、書道が盛んな県です。昨今芸術系の授業は、後回しにされていく傾向がある中、全国でもこれほど芸術に理解のある県は珍しいのではないでしょうか。県の見識には感動です!

禅書道イメージ

「呼吸で書く意味」

私の書道は、禅の呼吸を元にした心をはぐくむ書道です。呼吸法の効果として「集中力、ストレス、創造性、EQの向上、人間性の向上」が挙げられていますが、子どもに坐禅は長時間難しいので、同じ効果が期待できる「動く禅」である書道を使って禅を体感してほしいと開発したものです。
狙いはこのハーバード大学が認めた5つの効果はもちろんですが、本当は6つ目の「まだ眠っている自分を引き出して出会う」ことが第一の、そして究極の教育として必ず体験させるべくいろいろ仕掛けを配備しながら目指しています。

もともと禅修行は、「坐禅と掃除」の二本立てと言ってもよく、私も道場ではこのふたつに取り組みます。中でも掃除などの作業は「作務(さむ)」といって、坐禅の数倍もの効果があると昔から言われているものです。
「摂心会」という修行期間に入ると、坐禅が最低7時間、作務が最低5時間、間に老師の御提唱というお話などがありますが、あとは短い食事と短い午睡と短い睡眠という構成になっています。
つまり坐禅によって心が外界の受信機ではなく、己のものになりきり、充実した主体的な状態になることを目指すのですが、それには強力な集中力が必要なのです。そこで、余計な念慮を振り払うには、かえって作業をする方が良いのです。どちらかというよりは「静の坐禅、動の坐禅」の両方を上手に使って、身心の統一を図っていきます。

ストレスが消え、脳機能が向上し、幸せを感じる

呼吸法の研究では、呼吸法の集中力によって、ストレスやウツへの対処が薬と同じくらいの効果があり、脳の機能がグンと上がると言われています。要するに、書くことに上手く集中できれば、ストレスは消え、脳が発達するのです。
また落ち着きから来る身近な幸福感から精神性の高い幸福感までを味わい得ることができると言われ、身体においては、炎症の遺伝子が変化するとまでの報告があるくらいなのです。
子どもたちが、坐禅を書くことに移して、知らず知らずのうちに、日頃の小さなストレスを消し、能力を伸ばし、幸せを感じ、身体が健康になるのが、禅書道という考え方です。

夢中とは違う

では、書道なら何でも良いのかといえばそれは違います。集中とひと口に言っても、苦しい気持ちでの集中もあるのです。パフォーマンスを最大に上げるのは、オリンピック選手もやっているように、マインドが自分を信頼し、周囲を信じ、明るい気持ちで未来を心配せずに手放している時にしか得られません。
 これを可能にするのが呼吸なのです。これしかありません。
 たとえば鎌倉時代以降、武士は皆禅を修めました。鎌倉武士はもちろんの事、戦国時代、上杉謙信や直江兼続は禅寺育ち、織田信長に天下布武の言葉を与えたのも禅僧、徳川家康の家庭教師も禅僧、下って西郷隆盛や大久保利通も若き日、早朝の禅寺での坐禅を欠かしませんでした。

呼吸こそが最大のパフォーマンスを引き出す

要は、命が最大の危機にあるような戦場で、過去の怖かったことを思い出したり、先の事を考えてへっぴり腰になっていては、きっとすぐにやられてしまいますね。ではどうしたらよいのでしょうか。最大のパフォーマンスは今に集中して恐れを手放すことです。そこに全精神を投げ込まねば最大の自分を引き出すことはできません。この恐れを手放す精神状態を作るのが呼吸なのです。だから武士は禅を小さい頃から修めたのです。

「筆を持ったらサムライ」の意味がおわかりいただけたでしょうか。
字を書くとき、たとえば右払いが苦手だとします。もう筆をおいた時点で「前も書けなかった、きっと今度も失敗するかも」と思ってしまうのです。まだ払いの場所まで行っていなのに、です。
このような精神のクセをつけてしまうと、人生が大きく誤ってしまうでしょう。人間関係でも常に先を考えて言いたいことを言えずに恐れ、自分の夢もできなかったらどうしようとチャレンジを恐れる人生になってしまうではないですか。
だから、常に吐く呼吸に全神経を乗せて「今に全集中」の状態を作ることを体感させるように指導していくのが私の役目です。

ほとんどのお子さんが金賞

しかし、ここが肝心です。最初に「究極の教育として必ず体験させるべくいろいろ仕掛けを配備しながら」と書きました。あまり手の内を明かせないのですが、様々な秘密の仕掛けをしています。
第一に、安心して今に集中するためには、最短の時間で形や払いなどの手足の部分をマスターする必要があります。そのようなものは百発百中にしておいて、そこから全力で自分を引き出すのです。どこから書くのかな~?などとやっていては自己表現など先の先になってしまいます。これらへの対処には様々なやり方を開発しています。ご興味のある方はぜひ見学にお出で下さい。
このような過程は、たとえば勉強ではいうなら公式などさっさと覚えてしまって、解く楽しみに早く乗せてあげるようなものです。当然教える側の工夫が試されるところです。
ただし、どんな工夫も楽しいことが第一条件です。

禅書道イメージ

小学校2年 1時間の間に左から右へ 線が次第に深みを持ち充実。呼吸の深まりが感じられる。

禅書道イメージ

小学校1年7月 筆が上下せず重心が下がって落ち着いた体感が現れている

禅書道イメージ

小学校4年生書初め 洗練された筆遣い。 失敗したらどうしよう、というような心配を感じていればこのような落ち着きはない。垢ぬけている。

自分をコントロールできている充実と禅

 大人の時間では、自分の好きな書体や文字を書きますが、同じようにいかに正確に見るかが第一の上達の条件です。人は自分のレベル以上のものは「見えない」ものなのです。
鑑賞とひと口に言いますが、実際にはそのレベルにある人しか鑑賞さえできないものです。
だんだん手本が見えて来て、部分をマスターした後に、筆先に全身を込め、心配を手放して書くとき、曖昧な感覚でなく、自分をつかんでいる実感があると皆さんおっしゃいます。
オックスフォード大学の心理学の教授は、「人生の幸福には、自分をコントールしている感覚が必要」と言っています。
 動く禅は、子どもから大人まで、本当に大切なものを身につけ得る心の教育です。

お稽古日について

毎週水・金曜日と第2第4火曜日 3時半から6時 
年末年始は書初め練習のため特別期間となります。
見学は随時。お気軽にご連絡ください。

書道と禅 
本当の自分と出会うために

臨書とは天才の模倣

ごく普通の子どもの習い事であった書道が、禅と出会い、年月をかけるうち、別々であった二つのものが次第に寄り添ってきました。拙い経験ではありますが、そのあたりのことをお話させていただきます。
書道の練習の基本は臨書です。過去の天才たちの字をひたすら模倣していくのですが、これが子どもの私には、大きくなるにつれつらい作業になっていきました。
というのは、最初のうちはそこそこ上手に書けて気持ちもいいのですが、2回目、3回目になってくると、次第に自分の字のあらが見え始め、それにつれて手本の字がいかに優れていたかも見えてきて、手本との距離がグンとあることを実感します。こうなるとだんだん気が重くなってきます。それでも書き続けるのですが、やがて必ずやってくるのが、一文字がばらばらに何かの柄のように見えて文字に見えなくなってくるという状態です。本気でこの字はなんと読むのだっただろう、記憶にない造形だ、と頭を抱えるような時が来るのです。
何年もやっていると毎度のことで、ああ、また来たな、というくらいの判断は頭のどこかでしているのですが、冗談でなく恐怖感さえ感じる状態なのです。引くに引けない進むに進めない状態です。もちろんそれでも耐えて書き続けます。こうなると苦行以外の何物でもありません。しかしある程度の時が過ぎ、また時が満ちると、ばらばらだった一点一点がすっと収まるところに収まって、ああ、良かった、一山越えられた、と安堵することができます。まあまあできていると思った最初の字が、見るに耐えないものだった、と笑ってしまう瞬間です。この一連の過程が毎課題ごとに毎回必ず起こるのです。
よく覚えていることですが、小学校4年の冬、学校の書初め展に出す清書をしていまして、夕方から書き始め、夜になり、例の過程が起こり、ふと気付くと午前4時でした。子供としては初めて目にした未知なる時間でしたのでよく覚えていますが、その間の記憶がほとんどありません。
私は書道は文科系ではなく体育会系だ、とお話しします。そう言うと皆さん驚かれますが、脳で理解するのではなく身体に覚えさせるものなので、判ったからできるというものではないのです。ですから血肉となって使いこなせるようになるまでは体内でその人固有の化学反応も出て、場合によっては苦しむ事態にもなり、使いこなせるまでは時間がかかるのです。
一方「まねる」という作業は今にして思えば実は非常に合理的な教育方法だと思います。理屈程度でわかった気にさせることなく、優れた本物を無条件に直接身体に入れる、とは実はなんと親切なことであったか、私もずっと後になって思い知らされました。

野球の投手で村田兆治という人を仕事で取材したことがあります。彼は誰もしたことのない投球フォームを編み出し、今も野球ファンに敬愛されている選手の一人ですが、今野球少年たちに言い続けていることは、「最初から個性を求めてはいけない、基本をひたすら練習し使いこなせるようになったら自然と個性が開いてくる」と。個性の権化のような人がそう言うのです。
剣道でも、最初はひたすら師匠の動きに従って影に沿うように一切自分の判断を入れずに動いていくのだそうです。こうした稽古を重ねることを「百錬自得」と言い、最初は意識的に味気ない反復練習をするのですが、その時期を通り過ぎると次第に覚えた技が無意識に使えるようになり、次第に応用が利くようになり、ついには独自の世界に踊り出る時がくるというわけです。
禅では、人間力をつけるためには息の数をひたすら数える事に集中する「数息観」を修行の中心に据えていますが、力が付いたところで、自分の殻を自分で破っていくために、「公案」という理性では絶対に解けることのない問題を与えられ、それに全力で取り組む事になります。この公案こそ、最終的に小さな自我を捨てて、自己そのものに出会う事により個人の個性を最大限に発揮させるために設けられた、ある種の「手本」だと思います。
「公案」は昔の禅僧の練り上げられた境涯から発せられた問答や言葉で、その境涯を共有すれば何のことはなく実感できるものですが、人間としての力が届かないといつまでたってもちんぷんかんぷんなものです。禅ではこの「公案」を使って、ひたすら古人の境涯を自分の身にしみこませ、一体となるまでは認められない、とまで徹底した人間教育を施します。いわば禅はあらゆる習い事の中でもっとも直接的に手本を身体に一体化させる手段を磨きぬいてきたと思われます。

閉ざされた世界からの脱出

こんなことを十五年位やってきて、表彰されたりほめられたりするのはうれしいことではありましたが、なにせ苦行ですから楽しくはありません。楽しくないことにはいずれ限界が来ます。ついに大学生の時それが来てしまいました。ある時、所属していた書道会が師範養成のために全国から若手を集めて集中勉強会を開き、それに参加することになりました。四日間、朝から夕方まで書き続けるのです。一〇〇人位いたでしょうか。その雰囲気が、どうしようもなく暗く、一点一画に神経がぴりぴりしている様子が会場中に充満していました。もったくもってマニアックな世界で、いきいきとした芸術の創造性など微塵もなく、強い違和感と閉塞感で苦しくなりました。          
そのとき初めて、自分はこんな閉ざされた世界の住人だったか、と感じました。そしていったいこの閉ざされた世界に何の意味があるというのか、たかが模倣の世界ではないか、真似のどこに自己実現があるというのか、と悲しみが込み上げてきて、もういやだと一気に爆発してしまいました。
一方、この競書会の頃、禅の方も大学三年の夏に公案の第一問目を透過し(これを見性といい、禅門に一歩入ったことを意味します)、摂心という一週間門外不出の修行にはすべて参加する程夢中になっておりました。また一週間、また一週間と道場にこもってしまう私のために友人たちが代理返事を引き受けてくれたおかげでなんとか大学をやりくりしていました。
見性した摂心の後、大学に行き、そのデッキから見える山々を眺めたとき、山の輪郭はそれまでと何も変わっていないのに、今まで見ていた景色がモノクロだとしたら、今自分は総天然色で見ている!とその輝く美しさに感激した事を懐かしく思い出します。もしかしたらあの競書会もそれほどひどいものではなかったのかもしれません。ただ自分の小さな世界から飛び出す自覚が育っていた頃で、その反映だったのかもしれません。
こうして心の中では書の世界に訣別しましたが、先生が私をかわいがってくださっていたので、勇ましくやめる事もできず、が、望んだ仕事に就職し、はっきりと自分の望む世界を作り始めていましたから、書道とは付かず離れずに過ごしていました。

転機 ・ 手本と一枚になる体験

それからさらにしばらくして、転機がやってきました。
あるとき、奈良時代の光明皇后の字を手本に臨書をする機会がありました。光明皇后は東大寺の大仏を作った聖武天皇の后ですが、日本で最初に民間人で皇后になった人です。父親の藤原不比等が当時絶対の権力を持ち、タブーを犯して強引に娘を送り込んだのです。一方さまざまに唐文化が反映された実におもしろい時代でもあり、前々から興味津々だったのですが、書道の手本としては、私には特に精魂かけて習うほどには見えませんでした。
王羲之の書を光明皇后が臨書したものなのですが、書いているうち、あら、ここでこんなに力を入れるわけ?王羲之とはちょっと違うのではないかしら、あら、ずいぶん強いな、すごい速さで引いているな、と、まるでその瞬間の彼女をなぞるように書いていたのだと思います。最後に藤三娘と力強い字で署名をしているのですが、すでに皇后の位にいる人が、藤原の娘と署名するとは・・・この誇り高い強気な字は、およそ民間初というプレッシャーで心細さを感じていたり、引け目を感じたりしているような字ではありませんでした。この呼吸で書く人なら、きっと胸を張って力強く宮廷で生きて行ったに違いない、少なくともこれを書いていた瞬間は・・・こうなるともうイタコ状態です。その時、遥か遠い歴史を机上で詮索していた地点から、書が一気に自分の中に入ってきたのです。
おそらく禅で言うところの「一枚になる」ということに近い経験だったのではないでしょうか。初めて味わう本当に愉快な気持ちでした。
それから私の臨書は、全く変わりました。たとえ書聖といわれる人であっても、遠くの誰かではなくなりました。もちろんテクニックの面では依然遠く遠く及ばないものの、なにせ息づかいがいきいきと伝わってくるのです。禅の世界にたとえるなら、相対の世界では決して交わることのなかった手本と自分が、絶対の世界でひとつになったようなものだと思います。当然鑑賞はもっともっと楽しくなりました。さんざん臨書をして、速度、力加減は、自分の手が覚えているのです。見ているだけで作者の手の加減や呼吸が自分の中で自分のものとして感じる面白さたるや!千年前の手本が今もいきいきと生きているのです。命が吹き込まれたようでした。

美しい字は息で書く

私は書の追究は、美を追究することと同義である、と思っています。というより真理の本質は美しく、また本物はすべからく美しい、のだと思います。美しさには理屈抜きで感動させる力があります。この理屈抜き、というところが肝心で、理屈抜きで感じるためには、感性が自分の雑念や既成意識に遮られることなく受け止められる状態でなければなりません。逆に言うと、書で美を追究するとは、そういう自分を育てていくことにもなります。
では、書道において「道」を経験するための鍵は何でしょうか。それは呼吸である、ということをお話します。

「習う」を超えて「道」として深く入っていくためには、「三昧」といわれる集中が必要です。手本と書いている自分が離れている状態を「相対」の状態といいます。これではいつまでたっても周辺をなぞっているにすぎず、これほど無味乾燥な作業はありません。思い切って手本の中に飛び込んでいき、自分をそこに没入させること、これを相対の対(つい)を絶した状態、禅では「絶対」の状態といいますが、ここへ入り込んで存分に味わってこそ、実力がついていきます。
さて、呼吸の話ですが、手本と書いている自分が離れているという相対の状態から脱して、書く事と、書いている自分が一枚になるには、全身が三昧の状態に入っていることが条件ですから、そうなるためには、禅の数息観法そのままに息を深く吐きながら、全身で一本の線を引きます。腰まで重心が下がっていれば上半身は自由に動きますから最低でも上半身全部を使うよう心がけます。そうすると肩に力も入らず、筆は軽く指を添えるだけで十分動きます。
私は教室で子どもにも大人にも書くときに、後ろから腰に手を当てて「息を吸って、筆をおいたら、さあ、吐きながら引きましょう」と一緒に呼吸をしながら書いてゆきます。呼吸の状態がそのまま線に出ます。当たり前のことですが、所詮自分の手から出てくるものなのですから、自分以上でも以下でもないのです。自分を整えれば整ったように書けますし、息が強ければ強いように、弱ければ弱いように、長ければ長いように、目の前に自分の状態が出てきます。

すべての鍵は呼吸です。息が胸までしか下りていなければ自分の身体をを三分の一も使っていませんから、なにやら気のない線ですし、たとえテクニック的に出来ていても、それは多少の見栄えがする棒でしかなく、実体のない不安定さ感じさせます。上手であればかえって虚飾めいて、品のない分、はっきり言って無様なものです。
つまり相対的な判断として上手下手を計っているだけで、実際は自身の内側からの承認ではなく他からの承認でしか評価を確認できないために、どんなに上手に書いても自分が出てこないのです。これでは本人も本当には楽しむことができません。
これは書道に限らず、相対の世界に住んでいるかぎり往々にして起こることで、このような人たちが心の奥で虚無的になっている例を私はたくさん見てきました。反動で逆に我が肥大化する例もあります。引きこもるか攻撃的になるか、どちらも根は同じです。
私が書道を通して実感してほしいと心から願うのは、実は、そうした相対的価値観のもっと先に本当に美しい世界が広がっているということなのです。

さて、呼吸が深くなり重心が腰まで下がってくると、だんだん線に骨格が見えてきて、その人の息遣いが伝わってくるようになってきます。そして呼吸が全身にいきわたり、集中が極まってくると、線の中に背骨がピーンと張ってとても安心感のある、いわゆる実体のある字になり、命が吹き込まれます。
そんな線が引けたときは、どんなに小さい子どもでも、書いた瞬間、ああ、できた、と実感します。理屈抜きでわかるのです。周りの子達も、わあ、いいね!と思わず言います。誰が見ても明らかに、何かが、全然違うのです。そこに存在している、という確かな感覚は、美しい、というほかに表現しようのない感動的なものです。
美しいとは実体がある、ということだと思います。よく禅で砂上の楼閣のような人生を過ごしてはいけない、と戒められますが、書道を通して思うことは、あらゆる相対的な価値観から解き放たれて、呼吸によって全身に自分がいきわたり世界と一枚になったとき、骨格のしっかりした美しい姿が現れ、それは無条件に肯定的である、といえます。そうなって初めて自分を表現する、自分の足で生きる、といえるのではないでしょうか。
一方、そのような字は、合理的で無駄がないことに驚かされます。基本のテクニックは筆の性質に従って素直に動かすことで、あっけなく身につきます。ですから、習いに来る子の9割が学校で賞を取ってきます。

十人十色の美

禅の人間形成が優れている点は、見性して同じものを見るにもかかわらず、人間が画一的にならず、皆がそれぞれに自分を育てていくことができるところですが、美の追究も全く同じことで、十人いれば十人の美しさがあり、それぞれが自己実現しながら固有に極めていくものです。が、一方、芸術の可能性としては、表現すべきものにしたがって背骨と肉の付け方の工夫は限りなく広がっていきます。
そのように見ますと、たとえば禅者の書としても有名な白隠禅師の字などは、あの太さでありながら、線そのものが骨で、贅肉がありません。これは驚くべきことです。太ければ贅肉が多い、というような一般的な身体に対する概念が吹き飛びます。そんなことができるんだ、と圧倒され、いっそあっけにとられるような感じです。禅的にいえば正念がとてつもないパワーで存続しているとでも言いましょうか。言葉は悪いのですが、やっぱり白隠はモンスターだ!と思えてしまいます。
一方、良寛の細い字は逆の意味でやはり贅肉がありません。贅肉とは一歩間違えば飾りに堕ちてしまいますから、一切の飾る気持ち、つまり我を洗い落とした簡素な背骨だけの線で、つつましく、厳しさを押しつけもせず、見るものの心をさりげなく正してくれる書といえます。

書は円相を目指す

最後に、文字は最終的に円相になる、ということをお話します。円相とは禅の掛け軸などに見かける、一筆で書かれた円のことで、初めも無く終わりも無い、真理を表現したもののことです。
通常文字は何画かの線と点で構成されていますが、それらが滞ることなく収まるところにふさわしい形で落ち着くことで、円満に表現されます。
たとえば「心」いう字を思い浮かべていただきますと、一画目の点を打ち、二画目の曲線を引き、三画目の点に行くとき大きく撥ねるのですが、実は線自体は撥ねる前に完結しています。ここでしっかり息を吐ききり終わります。この美しい撥ねは、三画目に移動するために必要な腕の動きであって、合理的に機能しなければただの飾りになって途端に美しさからは遠ざかります。
撥ねる前に二画目は終わっていますが、もちろんこの撥ねは二画目に含まれており、しかも実は三画目がすでにここから始まってもいるのです。というのはどこに次の点を打つかを心得たうえで撥ねなければならないからです。しかし、三画目が気になりながら撥ねては絶対にいけないという、実に微妙なところです。つまりひとつひとつが完結しているにもかかわらず、完結の中にも次が始まっていなくては、ぶつぶつと切れ切れになってしまい、およそひとつのまとまりには見えなくなってしまいます。この撥ねは空間を目で見えるよう、「必然」を美として表現しているのです。本当の美は合理的で無駄がないというのはこのようなことからもわかります。

茶道の手前でも同じことが言えると思います。茶碗に抹茶を入れた茶杓を棗の上に戻し、続いて茶碗にお湯を入れるべく柄杓に手を伸ばします。このとき、茶杓をしっかりと、置く、ということに集中してその動作を完結させますが、置き終わって手を離す最終地点には、微妙に次に柄杓を取るという動作が含まれます。とはいえ即今ただ今の動作に集中せず、次の動作を意識したお手前は、なんともいえず居心地が悪いものです。
書でいうと、月の一画目の払う線を、最初から払う先端のことを気にしながら引いた線には心が入っていませんので、なんとなく上手に払おう、というような意識した気持ちを見せられて、禅的に言えば欲や執着が垣間見られて、なんともいやな気分になります。白一色の絶対の世界に黒の点ひとつ付いた瞬間から宇宙が始まるのです。引き返すことなどできないし、先のことを心配しても始まりません。今に集中するしかないのです。ですから筆と紙が接している地点に集中し、払うべき時が来たら毛筋一本が紙を離れるまで、芸術の神に捧げるごとく美しさに徹して払う、このくらいの潔さがほしいところです。
ぶつぶつ途切れず重ならず流れるような動作、というのはもちろんだらだらと続くことではありません。ひとつひとつの完成が次へ次へと合理的に機能する中で生まれてくるのです。

これを根底で支えるのが、呼吸です。深い呼吸から動作する自分と動作が一枚になり、正しく滞りなく流れていく時、何にも惑わされないまっさらな自分が保たれ、禅で言うところの正念が相続し、美しさは生まれます。
筆で線を書いているときは吐き、筆が空間を移動する動きの時は吸います。墨の黒が陽ならば、見えないところは陰で、陰陽陰陽と呼吸が動いていきます。実際その重さは両者同格であり、見えない陰の部分に対する扱いが実は大変重要です。
たとえば風という字の二画目がどう撥ねられたかを見れば、書き手がどう三画目に向かって腕を動かしていったかが鑑賞できます。その見えない動きを味わうのも醍醐味なのです。見えないところが見えなければ、実は半分しか見ていないことを知らなくてはなりません。
そのように陰陽が滞らず動いていけば、これは究極的には始まりも終わりも無い円相になります。正念相続、まさにそういう書を目指したいものです。

相対の世界から絶対の世界へ

20世紀最高の舞踏家の一人でモダンダンスを完成させたとされるアメリカのマーサ・グレアムという女性が、「血の記憶」という著書の中で、動作と動作の間、静止点と静止点の間、の「and」こそがダンス、だと言っています。自然な呼吸を途切れさせず「and」が表現されなければ、それは死んだダンスである、と。そして呼吸が「and oneそして次へ」を支えるものであるとも言っています。まさに陰陽陰陽流れるような正念相続で、まったく茶道のお手前にも、書道の一文字にも通じる言葉です。

随分大層なことを述べてまいりました。私など、かつて臨書の枠を超える「一枚になる」という経験があった時、大悟でもしていれば格好よかったのですが、実際はその後、参禅を繰り返す中で、ああ、そうか、と振り返って実感してきたというのが本当で、遅々として進まぬ修行を思うと恥ずかしいかぎりですが、今の時点で思うことは、相対の世界で生きているかぎり、私の少々悲しい!臨書の経験から言っても、どんなに努力しても心を尽くしても、決して交わることがない、という点で、人生には根底に孤独の悲しみと苦しみが宿っている、と私は認識せざるを得ません。
それはイブがりんごを食べ、つまり我を宿したことで人間になり、エデンという絶対の世界から相対の世界へと追放されたときから人間が背負った宿命ですが、私はこれを罪とも思いませんし、別に悲観的な話でもないと思っています。
なぜならこのゆえに人間には限りない想像や潤沢な感情も生まれ芸術もあるのでしょうし、また決して交わらない悲しみを埋める努力を人間はあきらめてはいけないと思います。
しかしここにいる限り、永遠に孤独な片思いと決まっていて、絶対に愛し合える望みはないのと同じですから、永遠に交わらないのなら何のための努力か、と問いたくなりますし、ニヒリズムに陥って当然です。人間関係のあらゆる事件や悲劇もこの相対の苦しみから生まれます。釈迦が世界を「この世は苦である」と言った理由もこんなところにあるのではないかと思っています。 
しかし禅の見性によってこの境を乗り越えることができれば、再び相対の世界に戻っても今度は実体ある自分を生きていくことができます。こんなチャレンジに足る生き方があるとは、人生はなんと面白いことか、と今は思っています。

合掌