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仏教講座 『夢中問答』⑤ 2/26(日) 午後2時から3時半 ZOOM可

早いものでもう2か月経ちました。
仏教講座、今回もさいたま禅会の摂心会の後に、日暮里の擇木道場で開催します。
今回のテーマは「眼で聞き、耳で見る、本分の田地」です。

前回は、「順境、逆境、自ら司る頭となれ」という題でした。
足利直義公は、凡夫は順境逆境に影響されて坐禅で修行の成果を得たくても修行が真っ直ぐには進まないので、まず、人生に起こる様々な順逆の環境に対して、少しでも精神的に振り回されない方法はないでしょうか、と尋ねます。(41 理入と行入 (世情を去る工夫))

直義公は鎌倉幕府滅亡の功臣でありながら、後醍醐天皇から朝敵として追討され死の淵を見たり、室町幕府を立ち上げはしたが、仲間であった高師直たちバサラ大名たちと衝突して討ち、挙句ついに兄尊氏との対立がいよいよ表面化してきています。
後醍醐天皇も、一度は悲願の政権を樹立しますが最後は隠岐に流されてしまいました。

まさに順逆が激しく入り乱れる中で、正しい生き方を求めたくても環境に心を奪われ心配や苦悩が絶えない状況であるわけです。
それは私たちも同じで、会社で安定してきたと思ったら上司が変わって立場が逆転したり、転勤になったり、自分は良くても家族が病気になることもあります。変化、無常が私たち人間の人生なのですが、国師はこれに対し、「自分の心に合わないことを嫌だと捨て、自分の心にかなったことのみを願い求める。 そうした娑婆を私は「欠減」と翻訳した。」とおっしゃいました。

この欠減(缺減)という語は国師独特の表現で、非常に意味深いものでした。
「娑婆」は通常「忍土」と訳します。人間は背の高い人もいれば低い人もいます。高い人は低いが欠けているし、低い人は高いことを失っています。
そのことによる間違った評価指標(思い込み、刷り込みの価値観)によって生まれる「~であるはずだ」という価値観と比べて足りていないと思って不幸になるわけです。
ところが人間は「色」である以上、もともと誰でも何かしら欠けて存在していると言えるのです。釈尊でさえ生まれた時に母を失ったという欠けを持っていました。

だから「この娑婆世界にありながら心にかなうこと(順境)を求めるのは、火の中に入って涼しいことを求めるようなもの」 と、まず理解しなければならない、とおっしゃるのです。
そして「ゆえに、もし思うようにならないことに出会ったら、煩悩の苦を離れよと勧められたと認識しなさい。己を悩ますものは外の境涯ではなく、自分の心の問題であると心得なさい。」
つまり対処療法ではなく、根源的な解決を図るべきだと、お示しになったのです。

<例> 喧嘩っ早い僧に諭した言葉
  「喧嘩を上手にするにはまず敵の大将に目をつけて雑兵などを相手にしないことだ。
大将さえ打ち取ってしまえば、雑兵は自然に滅びてしまうからだ。よく考えれば、たとえ他人に
罵られ、打たれようとも、それによって決して地獄に落ちることはないではないか。そのことで
怒った自分の心が自分を地獄に落とすのだ。だから己を損害する大将は他人ではない。 そ
れは自分自身の心なのだ。 争いの気持ちが起こったら、まずこの自分の中にある自分を害
する心に注目してそれを討ち取りなさい。」と教えました。

事実が問題なのではなく、事実をどう解釈したか、という自分の心に振りまわされているとわかって、この幻想である「思い量り(分別心、執着の元)」を一切投げ捨てるが良い、と説かれます。

そして、注意点。
自己を損害する大将に気づいたのは良いが、出てきた考えを抑え込んだり追いやろうとしたり、他の考えを持ってこようとしたりするのは、「血で血を洗うようなもの」。思い切って「一切の是非に関わってはならぬ。これが大乗の工夫である。」と説かれるのです。
出てきたもの(色)はすべからく因縁によって必然的に形作られたもの。これを否定しても始まりません。景気よく丸ごと捨ててしまえ!三昧の中で形を失わせて(浄化して)しまうということです。

そして、そもそもなぜ順逆に翻弄されるというような事態になるのかといえば、心が受け身だからです。前回ご紹介した釈尊の「ご馳走は誰のものか」という逸話にあったように、主体性が保たれていれば、いわばセルフコントロールが利いているということですから、環境が主ではなく自己が主となっているので、振り回されることはありません。
受身はそれ自体が心の毒
『六祖壇経』の中でも、心の浄土とは、という説法に、以下のものがあります。

「諸君、誰でも自分の肉身は城であり、眼、耳、鼻、舌、は城門に当たる。
肉身の外には五門が有り、内側には心の門がある。
心は国土で、その本性は王であって、王は心の国土に居る。

・・・
自我への高ぶりを離れれば、須弥山は崩れる。
邪心を除けば海水は尽きる。
煩悩が無くなれば波浪は収まる。
自己の心にある覚性という如来は、智慧の大光明を放って、六門を照らして清浄にし、六欲天を照破するだろう。
自性が内側を照らせば、貪瞋痴の三毒はたちまち除かれ、地獄に落ちる罪は一度に消えてしまう。
そうなると心の内も外も明るく透き通って、西方浄土と変わらない。
こういう修行をしないで、どうして浄土に行くことができようか。」

さらに「48 坐禅の本意」のところでは、
坐禅は難しい、というような質問をした直義に対し、
禅宗で修する坐禅は心を静めるとか体を動かさないようにしていることではない。
だから、何も思わないようにすることを大事だと思ってはならない。
禅宗は教理を考えることではない。
だから、自分は愚鈍なので教理を習うのは大変だとも言えない。
坐禅の為に、お金が必要なわけでもない。
だから、自分は貧乏だからできないとも言ってはならない。
坐禅は体力のいることではない。
だから、自分は身体が弱いからダメだと言ってはならない。
仏法は世俗の煩わしい苦労の中や、日常の中にある。
だから、自分のような俗人にはついていけないと思ってはいけない。

さらに、
(身) 焼香や礼拝は身体でする行であるから、身体が何か他の事をしている時にはできない。
(口) お経を読んだり、呪文を唱えたり、念仏を申したりは口を使ってするのだから、何か別の事を話すときにはできない。
(意) 教理を深く観想するときは心を用いるのだから、別の事を思う時には観想はできない。

しかし、禅宗における工夫というのは、身体や口や心をもってするものではない。何を難しいというのか?」

と、国師はおっしゃったのですが、
???身口意を使わないから難しくない???どういうことなのでしょう・・・

今回はこのお示しに対する直義公の問いから始まります。
さあ、真理に迫る問答です。ご一緒に拝聴いたしましょう。      

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